名所・歴史紹介

「下坂氏館跡」長浜市下坂中町 国指定史跡

下坂氏館跡は、長浜平野の南西部にあります。長浜市民病院にほど近い南西方向にある森がその場所です。館跡の北側を五井戸川が流れ、下坂クリニックの場所といえば、判って頂けるでしょう。下坂氏は、南北朝時代からその活動がわかる名家で、佐々木氏・京極氏・浅井氏との関係を示す古文書を伝えています。その館跡は、中心部分の「主郭」を二重の「堀」と土を盛り上げた「土塁」で囲んでいます。さらにその周囲に、「武者走(むしゃばしり)」や「武者隠(むしゃかくし)」、「腰郭(こしぐるわ)」を配置しています。この構造は、攻め落としにくい堅固な造りであると言えます。発掘調査では、15世紀後半に焼けた跡が出土しています。『江北記』という資料にある、文明18年(1486)4月28日の下坂私邸焼き討ちを示すものとして注目されます。下坂氏館跡は、屋敷や菩提寺の不断光院、土塁・堀等が現在でも残り、中世の雰囲気を今でもよく伝えています。なお屋敷地は、個人宅で残念ながら非公開です。

 

「さいかち浜と箕浦合戦」長浜市下坂浜町 さいかちの木(長浜市指定樹木)

さいかち浜は、長浜六荘地区の西部・湖岸沿いに広がる浜辺です。昔は下坂浜町から田村までの湖岸に、多くのさいかちの木が茂っていたので、「さいかち浜」と呼んでいました。

今から約450年前の元亀2年(1571)5 月6 日に小谷城の浅井長政は、箕浦城(守将・堀秀村)を攻めようと姉川に出陣し、一族の浅井七郎に一向一揆勢5000 人を指揮させて箕浦城に攻め寄せました。横山城でこの様子を監視していた秀吉は、自ら100 余騎を率い、横山丘陵の東側を南下し、箕浦城を救援しました。そして秀村と共に撃って出て、一揆勢と戦い、下長沢で激戦となり、両軍は戦いながら下坂のさいかち浜を経て坂田八幡宮の付近まで乱戦となったのです。今では樹齢400 年というさいかちの木が一本だけ残り、往時をしのばせています。

 

「下坂鍛冶の仕事場」長浜市下坂中町・下坂浜町

今から約400年前、近江国坂田郡下坂庄(長浜市下坂中・下坂浜町付近)には、下坂鍛冶が居住していました。その起源は、明らかではありませんが、15世紀前半には下坂庄内で鍛冶が集まって住んでいた「村」があったことが判っています。その後下坂鍛冶は、天正初年から慶長期の初めごろ(1573~96)にかけて、美濃の刀工「兼先」等を招へいし、戦国末期の争乱で武器の需要が増加するに伴って急速に成長します。この時期の下坂鍛冶の作刀は、大多数が鎗であったと推定されます。秀吉の家臣・加藤清正や石田三成等が賤ヶ岳合戦で使用した鎗も、下坂鍛冶の作品とも考えられます。慶長5年(1600)関ケ原合戦後には、下坂鍛冶たちは越前(福井県福井市)・伊予(愛媛県松山市)・筑後(福岡県柳川市)等全国各地に移住します。このうち越前国に移住した「下坂市左衛門」は徳川家康に仕え、幕府の御用鍛冶となってその子孫は江戸時代を通じて繁栄します。写真は、昭和27年に下坂浜町沖から発見された井戸跡です。下坂鍛冶村の仕事場跡の可能性があります。

 

「徳勝寺と浅井三代墓所」長浜市平方町

近江国(滋賀県)の北部を領した戦国大名浅井氏は、浅井亮政を初代として、久政・長政の三代で「浅井三代」として知られています。この浅井氏と徳勝寺の関係は、大変深いものがあります。寺伝によれば、永正15年(1518)浅井亮政が小谷城清水谷に「医王寺」を移転させました。医王寺は、もと浅井郡山田村(長浜市湖北町)にありましたが、浅井氏の菩提寺として移転し「徳昌寺(徳勝寺)」と改称したと伝えています。

そして浅井氏滅亡・小谷落城後は、羽柴秀吉によって長浜城内に移され、さらに城下町の田町(長浜市朝日町)に移されます。その後現在地に移るのが寛文12年(1672)で、浅井長政百回忌の年にあたりました。徳勝寺には、長浜市指定文化財の羽柴秀吉寄進状(医王寺宛)や羽柴秀勝寄進状(徳勝寺宛)、浅井亮政夫妻木像・浅井三代木像・浅井長政夫妻木像などの浅井氏ゆかりの資料が現存しています。また境内に浅井三代墓所もあり、戦国ファンや歴女の参拝が絶えません。

 

 「平方の港と市場」長浜市平方町

徳勝寺は平方町にあります。この地には、現在ヤンマーミュージアムや工場があり巨大なマンションが建ち、生駒神社が鎮座して、南には宅地が広がり田畑も残る静かな住宅街です。しかし長浜町が開かれる四百年以上前は、この場所に大きな市場(市庭)があり当時の「繁華街」があったのです。平方の名は、『日本書紀』の継体天皇の条に「比儸哿駄」と記されています。延暦三年(七八四)には、平方に対して「三条室町之諸商買之座」が下され、平方浦(港)は坂本日吉社領として殺生禁断の地となっていました。寿永二年(一一八三)には、木曽義仲の軍勢が当地を経由して京都に進軍しています。鎌倉時代には平方荘の年貢米は、琵琶湖を舟で大津に輸送されています。これらの資料から、少なくとも平安時代初めには平方が湖上交通の拠点になっていたことが判ります。建武元年(一三三四)十一月九日、菅浦(長浜市西浅井町)の藤二郎は、平方浦で材木を積んだ船一艘を差し押さえられ、平方市庭に拘留されました。また得珍保(八日市市)の塩商人が、平方に津料(関銭・税金)を納入しています。この様に、商人の活動もかなり活発であったことが伺われます。

また室町時代には、浅井郡河道浜(長浜市川道町)の商人が、平方市庭の者が商売の独占権を侵害していると幕府に訴えるなど、鎌倉時代から室町時代にかけて、商人などの活動が活発であったことが判ります。そして江戸時代に長浜八景の「生駒の落雁」に選ばれた生駒神社は、勧請年代や創建年は不明ですが、鎌倉時代・元応2年(1320)の刻銘のある梵鐘に「平方生駒社神宮寺鐘」とあります。生駒神社は、鎌倉時代にはこの地に存在していたことが裏付けられます。鎮座する位置が、現在の場所からあまり移動していないとすれば、中世の平方庄の湖岸には、港がある市庭が広がり、これに隣接して生駒神社と神宮寺(神社に附属する寺院)の壮麗な伽藍がある風景がイメージ出来るでしょう。

またこの市庭には、商人たちが集住していたと考えられます。浅井氏が滅亡した天正元年(1573)9月に、湖北を領有した羽柴秀吉は、翌天正2~3年頃に、湖岸の今浜に築城を開始します。